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2005年 08月 09日
白石一文[僕のなかの壊れていない部分]読みました。
なんというか、僕が考える哲学とは違う人生論を読むのは楽しいですね。いつも僕はそうですが、自分の論を崩したくないという考えと、自分の論理を真っ向から打ち崩してくれる考えを求めているという矛盾した心理を持っています。 それは何故かというと、自分の信じている哲学を実践しても、自分はぜんぜん幸せになれなくて、いつも無駄に苦しい圧迫された状態になっているからです。でも自分の信じていることを全否定されるということは、今まで僕がやってきたことを否定されるということです。それも怖い。所詮、駄々っ子のように我侭言っているだけですね。 こういう文章を書いている時、いつも自分の言いたいことが文章にできないことが歯がゆいです。文章力のなさもありますが、一番の原因はまだ自分でも考えをまとめきれていないからでしょうね。 僕の信じている哲学、いや人生観というものかもしれません。それはギリシャの哲学者エピクロスが主張した[Epicureanism:快楽主義]に分類されるものだと思います。 [僕のなかの壊れていない部分]にかかれてあるような生死感の僕の解釈はこうです。[生と死は苦しいもの、だからそれに目を向けて悩む必要がある。結局人には居場所なんて初めからない、そんなものは唯の幻想でしかない。] 僕もこの人の言っていることは分かります。人が考える幸せというものは、結局その人の主体的なものであって、絶対的なものではありえない。死に向き合うことは必要なことだと思う。 でも、この論理は本末転倒なものだと思います。なぜ人は死について向き合わないといけないのでしょうか、それは死の直前に苦しむのが嫌だからです。なぜ人は自分が孤独だと思わないといけないのでしょうか、それは自分が本当に孤独になったときの言い訳のためです。とすると、結局この論理は苦しみから逃げること、つまり言い換えると自分が幸せになることを目的としているのに、結局自分が不幸になる道を選ぶという本来の目的を見失ったものになっていると思います。 僕がいつも思うのは、もうちょっと楽に考えて結局幸せになりたいのならば幸せになればいいじゃないかというのが僕の哲学です。死に向き合うのが怖いなら向き合わなければいい。人は本来孤独なものだとしても、つながりを自分が信じて幸せであればそれでいいじゃないか。 自分のいつも考えていることを文章に表そうと思うといつもここらで混乱してきます。結局自分は何が言いたかったのだろうって。だいたいいつも思うのですが、結局哲学っていうのは自分への言い訳ではないのでしょうか。だって、本当に幸せならその幸せの出所などを探ろうとはしませんからね。ソクラテスだって言っているじゃないですか「なにはともあれ,結婚しなさい。良妻を得れば幸福になる。悪妻を得ればあなたは哲学者になれる。」 結局何がいいたいか分からなくなってきました。僕の悪い癖です。
by haluto77
| 2005-08-09 12:00
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